徳島 杖杉庵 弘法大師と衛門三郎の像

杖杉庵 衛門三郎と空海上人

衛門三郎霊跡

伊予の国、浮穴群荏原の荘の長者 衛門三郎は財宝倉にみち勢い近国に稀な豪族であった。
それでいて強欲非道な鬼畜のようなこの長者は貧しい者を虐げ召し使いどもを牛馬の如くにこき使って栄華の夢に酔いしれていた。
雪模様の寒いある日にその門前に一人の旅僧が訪れた。
乞食のようなみすぼらしい旅僧は一椀の食物を乞うた。
下僕の知らせに衛門三郎は売るうるさげに「乞食にやるものはない追い払え」と言い捨てた。
そのあくる日も次の日も訪れた。衛門三郎は怒気満面いきなり旅僧の捧げる鉄鉢を引っ掴むや大地に叩きつけたと見るや鉄鉢は八つの花弁の如く四辺に飛び散った。
唖然と粋を呑み棒立ちとなった衛門三郎がふと我に返った時には旅僧は煙の如く消え失せていた。
長者には八人の子供が有った。その翌日長男が風に散る木の葉の如くこときれた。
その翌日には次子が亡くなり八日の間に八人の子供が亡くなった。
鬼神も恐れぬ衛門三郎も恩愛の情に悲嘆にくれ初めてこれはおのが悪業の報いかと身に迫る思いを感じた。

空海上人とか申されるお方が四国八十八カ所をお開きになる為、この島を遍歴なされているとか。
我が無礼を働いたあの御坊こそその上人と思われる。
過ぎし日のご無礼をお詫び申さねば相済まぬと発心し、懺悔の長者は財宝を金にかえ妻に別れ、住み慣れた館を後に野に山に寝、四国八十八カ所の霊場を大師を尋ねて遍路の旅を続けた。
春風秋雨行けど廻れど大師のお姿に会うことが出来なかった。
遂に霊場を巡ること二十度会えぬ大師を慕い続けた。
二十一度逆の途を取ってこの所までたどり着いた。

疲れた足をよろぼいつつ木陰に立ち寄り背に負うた黄金の袋を下ろしてみると、何とした事ぞ一塊の石となっていた。いよいよ驚き、今、一歩も立ち上がる気力も無くうち倒れている折しも大師のお姿が現れ給い、やさしく「やよ、旅の巡礼、そなたは過ぎし日わが鉄鉢を打ち砕いた長者にあらずや」とのお声。「われは空海、いつぞやの旅僧なり」
「ああ上人様お許しなされませ、お許しなされまし」と伏し拝み懺悔の涙はらはらと手を合わせ大悲にすがる長者は今こそ悪業深き無明の闇から光明世界へと還らんとする姿であった。

「そなたの悪心すでに消え善心に立ち還った。この世の果報はすでに尽きたり来世の果報は望に叶うであろう」と仰せられ、衛門三郎は大慈大悲の掌に救われ来世は一国の国司に生まれたい、と願った。大師はその心を憐れみ、小石をその左手に握らせ、必ず一国の主に生まれよと願い給い、衛門三郎はにっこと微笑みを残し亡くなった。

その日は天長八年十月二十日と伝えられる。大師は衛門三郎の亡骸を埋め、彼の形見の遍路の杉の杖を建て墓標とされた。その杖より葉を生じ大杉となった。故にこの庵を杖杉庵と呼ばれ、今尚大師の遺跡として残っている。
この杉は享保年間焼失した。その頃京都御室から「光明院四行八蓮大居士」の戒名が贈られ、四国遍路の元祖として今もこの地にまつられている。

タクシー・ジャンボタクシーでいく四国八十八カ所オーダー巡礼の旅